今日のブログは少し堅苦しく書きます。
執着を捨てる、欲望を見極める。
穏やかに幸せに生きていくには向き合わなきゃならないテーマ
これは人生の大きなテーマかもしれない・・・
離欲(サンスクリット語:ヴァイラーギャ) = 無執着
『通常、心は何かを見聞きすることによって執着を生む。
心が外に向かって動き、その欲望を満たすものを集めるのは
主に眼と耳を通じてである。
あなたは、心が何かを見、あるいは聞いて
それに引き寄せられる前に、その対象が自分にとって
良いものであるかどうかを見きわめる識別の力を持つべきである。
心は、勝手に突き進んで何でも好きなものをつかむべきではない。』
【インテグラル・ヨーガ パタンジャリのヨーガスートラより】 スートラってヨガの教典です!
これってすごく難しいことだと思う。
欲望があるから心にさざ波が立ち、穏やかでいられないのは分かる。
でもすごく難しいことだと思う。
例えば、彼(旦那)に私の事が好きならこうするはず!とか
子供の成績が周りの子より悪かったら嫌だ!とか
○○じゃなきゃいけない!
あの人みたいに○○でありたい!
心が縛られることなく、すべてがモチベーションに代わるなら
それらの事を考えちゃってもいいのかもしれないけど
ほとんどはそうじゃないんじゃないかな。
心が締め付けられたり、悲しくなったり、怒りを感じたり・・・
思い通りにならないから心がザワザワする。
だから、
欲望を満たすための執着が、自分にとって良いものであるかどうかを
見きわめる識別の力を持つべきって。
それって、私的な感情にとらわれたり、利害の計算をしたり
自分の利益ばかりを考えてないですよね?
と、振り返ってみなさいということです
スートラにはこんなことも記されています。
『誰かを幸せにすれば、その人の嬉しそうな顔を見て自分も嬉しい
もしあなたが本当に、ただ与えるためにのみ与えることの喜びを味わったことがあるならば
そのような喜びを何度でも得ようとして、そうした機会を貧欲に待つだろう』
心というものある限り、欲望がなくなることなどあり得ない。
ただその欲望は、純粋で無私であれば心が縛られることなどないという。
私的なあるいは利己的な動機の欲望
→ 期待してしまい、思い通りにならないと苦しい
純粋で無私な欲望
→ 期待というものがないけど、与えることにより喜びを得る
彼(旦那)に対する期待
子供に対する期待
それって私的で利己的な動機じゃないですか?
すごく耳が痛いですよね。
私は美輪さんがおっしゃってた
『パワーは人に与えれば与えるほど湧いて出てくるものです。誰かにパワーをもらおうなんて賎しいことを思わないように。もらうだけじゃダメ。』
この言葉を忘れないようにしてます。
何かしてもらおうと思うより、私が何かしてあげようって思えるから。
期待することが減って、心に波風が立たない時間が増えますよ
ここで大切なのは、無執着と無関心を取り違えてはならないということ。
期待しないことが大切だからと思いすぎて
このポーズ…手が床に着きたくてたまらなかった時は到達できなかったけど
そんな気持ちから離れて何も考えないで練習してたら
ある日突然できた。
頭立ちのポーズも同じく。
ハワイのトレーニングの時はできなかったのに
帰国して一人でリラックスして練習したらできた。
その日から失敗することもありません。
絶対に到達しようと思う前向きな強い気持ちも大切ですが
それが自分にとって私的・利己的になりすぎて、純粋じゃなかったらダメなのかもね。
この二つのポーズは、できてる人が羨ましくて仕方なかったもんな(笑)
執着を手放した時に到達できることがあるのかもしれない。
ではまた